日本留学を振り替えてみる

eingetragen in: Erfahrungen, Japanese
Fukuoka City
fotolia @yyama

初めての日本語のブログ記事では、自分の通訳または日本への関心をテーマをしました。今回は日本領学の経験についてお話していただきます。

当時のミュンヘン大学で日本語を学ぶ授業ではテキストを読んだり、翻訳したり、文法の説明をうけてからその適用を練習したりすることでした。英語の日本語に教科書には一般会話が紹介されるページもありましたが、その分は常に飛ばして、かなりのスピードで進みました。それに不満を感じて、日本人のペン・パルと手紙を交わして補うことができる私が本当にラッキーと思いました。その時代、だコンピュータがそんなに普及していなくて、手書きの手紙でしたが、留学先の大学でのレポートも手書きでしたので、いい練習でした。

それにもかかわらず6年間日本語を学んできて、初めて日本に到着した時は日常会話あまりできなかった私は早々に本当に役に立つ言葉を習って、聴解能力も上げなければなりませんでした。幸いに九州大学の留学研究生はみんな6か月間の日本語コースが提供され、必要な語学力を身につけることができました。一年間半、宗教学研究室で学問的な専門用語を習いながら、自分の研究も始めました。しかし、一番いい勉強になったのは、自分が先生になって、プライベトの授業でも民間大学または市立大学でドイツ語・英語会話を教える機会があったことでした。

日本留学の主な目的は日本語能力をあげることでした

一年半がたって、やっと本格的な沖縄文化史の研究に入れるほどの語学力を得とくしまして、やはり日本留学期間を延長したほうがいいと思いました。幸いに久留米大学に転校できるチャンスがあるとともに自分が教える授業の数も増やすこともできましたので、大丈夫でした。それから、日本語でヨーロッパ事情という講義を持つことで、先生としての一番大きいチャレンジに面していました。その毎日の練習と友達の助けによって、1993年12月は日本語能力試験の2級と1994年の12月には1級を合格できました。ここでも皆さんに感謝を申し上げたいと思っています。

結局、日本滞在は5年半になりましたが、日本人とあらゆる国々出身の友達と楽しいときを過ごしました。しかし、少しづつ将来についてもいろいろ考えなければならなくて、いろいろと調べたあげく、やはり博士論文をドイツ語で書いて、ミュンヘン大学に提出したほうがいいとの理由でドイツに帰ったほうがいいと分かりました。そのときもずっと前から翻訳・通訳として文化の間の橋を築きたいという夢を思い出して、会社を設立するにはもうまた母国のほうがやりやすいと思って、ドイツの帰りました。

会社の設立とその十三年の歴史について、次回のブログでお話しさせていただきます。